2009/09/09

備忘録孝

「ある一定の緊張感を持った備忘録」というものを志向し、記録をつけることをはじめてみたものの、ほどなく気づいたのが、
“忘れたくないことほど、書くことができない”
ということだ。

こう書き出して、ふと『羊をめぐる冒険』(村上春樹 1982)の一節をおもい出したので、引用してみる。

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 僕は昔から手紙を書くのが上手くない。順序が逆になったり、正反対の言葉を間違えて使ってしまったりする。そして手紙を書くことでかえって自分を混乱させてしまったりする。それから僕にはユーモアの感覚が不足しているから、文章を書きながら、自分で自分にうんざりすることになる。
 もっとも、手紙が上手く書ける人間なら手紙を書く必要もないはずだ。何故なら自分の文脈の中で十分生きていけるわけだからね。しかしこれはもちろん僕の個人的な意見にすぎない。文脈の中で生きていくことなんて不可能なのかもしれない。
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引用ついでに、もう一つ。
『妄想の日食』(ジェイムズ・ラスタン)の一節。

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 ハガキ一枚ぐらいのことでバカ正直になるもんじゃない。
 正直さはもっと大事なことに取ってあるんだ。
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私は数年前、こうして記録をつける代わりに、うそ日記をつけ、公開していたことがあった。
(例えば、こおろぎに求婚されたり、作りもの鉤爪をつけ、タスマニアデビルになりきっているたぬきとカフェラッテを啜ったり、そういった類のものだった)

当時、私は国外で生活をしており、それならばブログをつけるようにと、ある友人に促されたのが、きっかけになったようにおもう。
実際、毎日、大学ノート一枚分程度の日記は書きつけていた。
しかし、それはあくまでも私個人のものであり、そっくりそのまま公開する気持ちにはどうしてもなれなかった。
だが、よくよく考え、その結果、サイト上になにがしかの文章が更新されることが、私の安否等々を気にかけてくれる人たちへの信号となることは大変に有効である、とおもうに至った。
ならば、中身はなんだってよい。

うそ日記をつけることは、体力こそいたが愉快なことでもあった。
自由でもあった。
そして、うその中にどうしても含まれてしまうほんとうの部分が、おそるべきことに備忘録としてさえ、機能した。
こうして、ある程度襟を正しながらつける記録よりも、その瞬間に流れた感情の痕跡が、生々しく残った。
今、読み返してもなお、その痕跡をたどることができるほどに。
もちろん、それは、大学ノートに書きつけていた日記同様、どこまでも私個人のものであるのだが。

抑制された記録より、うそ日記が、より備忘録たる、という事実に気づき、なんとまあ皮肉なものだとおもいつつ、もう少し、この実験(「ある一定の緊張感を持った備忘録」というものを志向すること)を、続けてみようとおもう。
そもそも、上手に備忘録を書ける人間は、備忘録なんて書く必要がないのかもしれないのだから。

2 件のコメント:

  1. 起こったことを書くよりも、思ったことを書くのが重要なのかもね。記憶も感情とかの紐付けをしたほうが忘れないっていうし。
    だとすると、ホントに大事なことは確かに書けない場合のほうが多い。
    俺は、あんまりあえなくなった人たちに、こいつこんなことしてて、こんなこと考えてて、とりあえず元気にやってんだなっていうのを見てもらえてたら、と思って書いてます。
    大げさに言うとね。
    だから馨ちゃんが書いてくれてるだけで、元気にやってんだなって思えるのでうれしいです。
    って、何かいてるんだか良く分からん。

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  2. たけちゃんの記録を読むことは、既に私の日常になりつつあります。
    更新されていると、うれしかったりして。
    更新される、ということが、その文字列が持つ意味合いと同じくらい、重要なのかもね。

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