卒業を誓ったしたはずの「ドラゴンクエスト9」。
しかし、“ドルマゲスLv99”なる地図をうっかり弟から受け取ってしまい、その尋常でない設定に、攻略せねば、といてもたってもいられず。
ちなみにドルマゲスですが、1ターンに3回行動。
打撃で約400、マヒャデドスやれんごく火炎で全員が約350~500、HPを削られます。
いてつく波動はもちろん、超おたけび、なども厄介です。
こちらの布陣は、バトルマスター・パラディン・僧侶・賢者、もちろん全員がLv99です。
HPは、一番高いパラディンで900、低い僧侶で700。
ドルマゲスに先制攻撃を許すと、1ターンで全滅すらしかねないわけです。
ドルマゲスの絶対的な強さに、当初、勝てるイメージがまったく浮かばず、弟に相談しながら、試行。
スキルを上げたりだの、川崎ロッカーの地図に潜ったりだの、底上げをはかりつつ、試行。
そしてついに、撃破。
運の要素もたぶんにあったとおもいますが、それでもうれしいものですね。
2009/09/27
ストッキングを履く人生、履かない人生
仕事の待ち時間で開いた、とある新書の中で見かけた「ストッキングを履く人生、履かない人生」という言葉。
ぴん、ときた。
私は普段、ストッキングを履かない。
そもそも、持っていない。
皮膚にぺったりと纏わりつく、あの感じがどうにも好きになれない。
ひとつ前のエントリでも触れた、“境界の際立つ”それが得意ではない、という要因がたぶんにある。
しかし、それだけではないようにもおもう。
少し前、仕事のうえで、久しぶりにスーツ着用が求められる場面があった。
私はそそくさとストッキングを買いに出掛けた。
百貨店のSALEワゴンの中から、えいやあ、と一足見繕う。
それを纏った足首が、ロングスカートからいやに白くのぞくたび、所在ない気持ちになる。
身体の一部は、白く滑らかに際立ち、かつ、きつく締めつけられているのに、気持ちはどんどんと所在をなくしてゆく。
ストッキングの記号性が、どこまでも私を疲弊させる。
ストッキングひとつで、こんなにも草臥れ果てて、なんと不自由なことか。
いつか、ストッキングを身につけても、びくともしない日がやってくるだろうか。
いや、願わくば、ストッキングの孕んでいる記号性に、無自覚にはなりたくない。
5年後も10年後も、うまく想像できないけれどその先も、たとい毎日ストッキングを身につける人生が待っていたとしても、ストッキングに慣れることがありませんよう。
ぴん、ときた。
私は普段、ストッキングを履かない。
そもそも、持っていない。
皮膚にぺったりと纏わりつく、あの感じがどうにも好きになれない。
ひとつ前のエントリでも触れた、“境界の際立つ”それが得意ではない、という要因がたぶんにある。
しかし、それだけではないようにもおもう。
少し前、仕事のうえで、久しぶりにスーツ着用が求められる場面があった。
私はそそくさとストッキングを買いに出掛けた。
百貨店のSALEワゴンの中から、えいやあ、と一足見繕う。
それを纏った足首が、ロングスカートからいやに白くのぞくたび、所在ない気持ちになる。
身体の一部は、白く滑らかに際立ち、かつ、きつく締めつけられているのに、気持ちはどんどんと所在をなくしてゆく。
ストッキングの記号性が、どこまでも私を疲弊させる。
ストッキングひとつで、こんなにも草臥れ果てて、なんと不自由なことか。
いつか、ストッキングを身につけても、びくともしない日がやってくるだろうか。
いや、願わくば、ストッキングの孕んでいる記号性に、無自覚にはなりたくない。
5年後も10年後も、うまく想像できないけれどその先も、たとい毎日ストッキングを身につける人生が待っていたとしても、ストッキングに慣れることがありませんよう。
2009/09/19
来るべき寒い季節の到来
容赦のない日差しを、少しずつ秋の風が回収し、もうじき秋分。
暦の上で、冬が立つまで、あと二月足らず。
私は極度の寒がりで、次の季節の到来を、心底おそれている。
“境界の際立つ”それが、得意ではない、のだとおもう。
細身のシャツやらパンツやらに腕だの脚だのをすべり込ませたり、ブラジャーをつけたり(最近一日ばかりわすれましたが)、ベルトをつけたり、そういった作業を怠らずにやってきたにも拘らず、境界の際立つ、その感じに対する免疫のようなものはちっともできない。
熱いシャワーを浴び、髪の毛をきつく縛って、好きな男のひとと手を繋いでみても同じ。
それでも、私は、細身のシャツやらパンツやらに腕だの脚だのをすべり込ませたり、ブラジャーをつけたり(しつこいですが、最近一日ばかりわすれました)、ベルトをつけたり、そういった作業は怠らずにやっているし、熱いシャワーも浴びれば、髪の毛もきつく縛れば、ときどきは好きな男のひとと手を繋いだりもする。
手を繋ぐのはともかく、今さらやめるわけにもいかない、というのが主な理由ではあるが、得意ではない、ということと、好き嫌い、というのは、違ったものであるし、また、ブラジャーをつけると得られる効果、というのが、乳房の境界を際立たせること以外にもいくつかある、というところも大きい、のだとおもう。
とはいえ、来るべき寒い季節の到来は、おそろしいものであることに変わりはなく、このまますべてを放り出して、南半球に逃げてしまおうか、とかんがえたりもする今日この頃。
さて、どうしてこんなことを懸命に書いているか。
みなさんもご存知の、木曜日のわすれものが深く影響している、ということは否めますまい。
暦の上で、冬が立つまで、あと二月足らず。
私は極度の寒がりで、次の季節の到来を、心底おそれている。
“境界の際立つ”それが、得意ではない、のだとおもう。
細身のシャツやらパンツやらに腕だの脚だのをすべり込ませたり、ブラジャーをつけたり(最近一日ばかりわすれましたが)、ベルトをつけたり、そういった作業を怠らずにやってきたにも拘らず、境界の際立つ、その感じに対する免疫のようなものはちっともできない。
熱いシャワーを浴び、髪の毛をきつく縛って、好きな男のひとと手を繋いでみても同じ。
それでも、私は、細身のシャツやらパンツやらに腕だの脚だのをすべり込ませたり、ブラジャーをつけたり(しつこいですが、最近一日ばかりわすれました)、ベルトをつけたり、そういった作業は怠らずにやっているし、熱いシャワーも浴びれば、髪の毛もきつく縛れば、ときどきは好きな男のひとと手を繋いだりもする。
手を繋ぐのはともかく、今さらやめるわけにもいかない、というのが主な理由ではあるが、得意ではない、ということと、好き嫌い、というのは、違ったものであるし、また、ブラジャーをつけると得られる効果、というのが、乳房の境界を際立たせること以外にもいくつかある、というところも大きい、のだとおもう。
とはいえ、来るべき寒い季節の到来は、おそろしいものであることに変わりはなく、このまますべてを放り出して、南半球に逃げてしまおうか、とかんがえたりもする今日この頃。
さて、どうしてこんなことを懸命に書いているか。
みなさんもご存知の、木曜日のわすれものが深く影響している、ということは否めますまい。
2009/09/18
わすれもの
月曜日、お財布を家にわすれました。
気がついたのは、JR中野駅の改札。
定期券もなにもかも、お財布の中に格納されていた為、入場することすらできず、そそくさ、と、来た道を引き返しました。
火曜日、携帯電話を家にわすれました。
気がついたのは、JR中野駅の構内。
引き返すか否か迷いましたが、えいやあ、と思い切って、そのまま電車に乗りました。
水曜日、今日はわすれものをしてたまるものか、と、鞄の中のお財布と携帯電話を入念に確認し、家を出ました。
しかし、持っていったはずの携帯電話を、今度は会社にわすれました。
気がついたのは、京王吉祥寺駅の改札。
デザイン事務所での打ち合わせを控えていた為、携帯電話を持たずに出掛けることが憚られ、駆け足で来た道を引き返しました。
木曜日、大声ではいえないのですが、ブラジャーをわすれました。
気がついたのは、西武新宿線の列車内。
会社の健康診断があり、レントゲン撮影が予定されていたことから、“ブラジャーをしない”までは計算のうちだったのですが、まさか持ってゆくのをわすれるとは、おもいもよらず。
まるで、プールの授業で水着はわすれず下着をわすれる、小学生のようです。
引き返すことも能わず、大変心細いおもいをした一日になりました。
“人並みにはわすれものをするけれど、多い性質ではないだろう”と、自身について分析をしていましたが、認識を改める必要がありそうです。
そして、明日、金曜日。
私は一体、何をわすれるのでしょうか。
気がついたのは、JR中野駅の改札。
定期券もなにもかも、お財布の中に格納されていた為、入場することすらできず、そそくさ、と、来た道を引き返しました。
火曜日、携帯電話を家にわすれました。
気がついたのは、JR中野駅の構内。
引き返すか否か迷いましたが、えいやあ、と思い切って、そのまま電車に乗りました。
水曜日、今日はわすれものをしてたまるものか、と、鞄の中のお財布と携帯電話を入念に確認し、家を出ました。
しかし、持っていったはずの携帯電話を、今度は会社にわすれました。
気がついたのは、京王吉祥寺駅の改札。
デザイン事務所での打ち合わせを控えていた為、携帯電話を持たずに出掛けることが憚られ、駆け足で来た道を引き返しました。
木曜日、大声ではいえないのですが、ブラジャーをわすれました。
気がついたのは、西武新宿線の列車内。
会社の健康診断があり、レントゲン撮影が予定されていたことから、“ブラジャーをしない”までは計算のうちだったのですが、まさか持ってゆくのをわすれるとは、おもいもよらず。
まるで、プールの授業で水着はわすれず下着をわすれる、小学生のようです。
引き返すことも能わず、大変心細いおもいをした一日になりました。
“人並みにはわすれものをするけれど、多い性質ではないだろう”と、自身について分析をしていましたが、認識を改める必要がありそうです。
そして、明日、金曜日。
私は一体、何をわすれるのでしょうか。
2009/09/13
2009/09/09
備忘録孝
「ある一定の緊張感を持った備忘録」というものを志向し、記録をつけることをはじめてみたものの、ほどなく気づいたのが、
“忘れたくないことほど、書くことができない”
ということだ。
こう書き出して、ふと『羊をめぐる冒険』(村上春樹 1982)の一節をおもい出したので、引用してみる。
***
僕は昔から手紙を書くのが上手くない。順序が逆になったり、正反対の言葉を間違えて使ってしまったりする。そして手紙を書くことでかえって自分を混乱させてしまったりする。それから僕にはユーモアの感覚が不足しているから、文章を書きながら、自分で自分にうんざりすることになる。
もっとも、手紙が上手く書ける人間なら手紙を書く必要もないはずだ。何故なら自分の文脈の中で十分生きていけるわけだからね。しかしこれはもちろん僕の個人的な意見にすぎない。文脈の中で生きていくことなんて不可能なのかもしれない。
***
引用ついでに、もう一つ。
『妄想の日食』(ジェイムズ・ラスタン)の一節。
***
ハガキ一枚ぐらいのことでバカ正直になるもんじゃない。
正直さはもっと大事なことに取ってあるんだ。
***
私は数年前、こうして記録をつける代わりに、うそ日記をつけ、公開していたことがあった。
(例えば、こおろぎに求婚されたり、作りもの鉤爪をつけ、タスマニアデビルになりきっているたぬきとカフェラッテを啜ったり、そういった類のものだった)
当時、私は国外で生活をしており、それならばブログをつけるようにと、ある友人に促されたのが、きっかけになったようにおもう。
実際、毎日、大学ノート一枚分程度の日記は書きつけていた。
しかし、それはあくまでも私個人のものであり、そっくりそのまま公開する気持ちにはどうしてもなれなかった。
だが、よくよく考え、その結果、サイト上になにがしかの文章が更新されることが、私の安否等々を気にかけてくれる人たちへの信号となることは大変に有効である、とおもうに至った。
ならば、中身はなんだってよい。
うそ日記をつけることは、体力こそいたが愉快なことでもあった。
自由でもあった。
そして、うその中にどうしても含まれてしまうほんとうの部分が、おそるべきことに備忘録としてさえ、機能した。
こうして、ある程度襟を正しながらつける記録よりも、その瞬間に流れた感情の痕跡が、生々しく残った。
今、読み返してもなお、その痕跡をたどることができるほどに。
もちろん、それは、大学ノートに書きつけていた日記同様、どこまでも私個人のものであるのだが。
抑制された記録より、うそ日記が、より備忘録たる、という事実に気づき、なんとまあ皮肉なものだとおもいつつ、もう少し、この実験(「ある一定の緊張感を持った備忘録」というものを志向すること)を、続けてみようとおもう。
そもそも、上手に備忘録を書ける人間は、備忘録なんて書く必要がないのかもしれないのだから。
“忘れたくないことほど、書くことができない”
ということだ。
こう書き出して、ふと『羊をめぐる冒険』(村上春樹 1982)の一節をおもい出したので、引用してみる。
***
僕は昔から手紙を書くのが上手くない。順序が逆になったり、正反対の言葉を間違えて使ってしまったりする。そして手紙を書くことでかえって自分を混乱させてしまったりする。それから僕にはユーモアの感覚が不足しているから、文章を書きながら、自分で自分にうんざりすることになる。
もっとも、手紙が上手く書ける人間なら手紙を書く必要もないはずだ。何故なら自分の文脈の中で十分生きていけるわけだからね。しかしこれはもちろん僕の個人的な意見にすぎない。文脈の中で生きていくことなんて不可能なのかもしれない。
***
引用ついでに、もう一つ。
『妄想の日食』(ジェイムズ・ラスタン)の一節。
***
ハガキ一枚ぐらいのことでバカ正直になるもんじゃない。
正直さはもっと大事なことに取ってあるんだ。
***
私は数年前、こうして記録をつける代わりに、うそ日記をつけ、公開していたことがあった。
(例えば、こおろぎに求婚されたり、作りもの鉤爪をつけ、タスマニアデビルになりきっているたぬきとカフェラッテを啜ったり、そういった類のものだった)
当時、私は国外で生活をしており、それならばブログをつけるようにと、ある友人に促されたのが、きっかけになったようにおもう。
実際、毎日、大学ノート一枚分程度の日記は書きつけていた。
しかし、それはあくまでも私個人のものであり、そっくりそのまま公開する気持ちにはどうしてもなれなかった。
だが、よくよく考え、その結果、サイト上になにがしかの文章が更新されることが、私の安否等々を気にかけてくれる人たちへの信号となることは大変に有効である、とおもうに至った。
ならば、中身はなんだってよい。
うそ日記をつけることは、体力こそいたが愉快なことでもあった。
自由でもあった。
そして、うその中にどうしても含まれてしまうほんとうの部分が、おそるべきことに備忘録としてさえ、機能した。
こうして、ある程度襟を正しながらつける記録よりも、その瞬間に流れた感情の痕跡が、生々しく残った。
今、読み返してもなお、その痕跡をたどることができるほどに。
もちろん、それは、大学ノートに書きつけていた日記同様、どこまでも私個人のものであるのだが。
抑制された記録より、うそ日記が、より備忘録たる、という事実に気づき、なんとまあ皮肉なものだとおもいつつ、もう少し、この実験(「ある一定の緊張感を持った備忘録」というものを志向すること)を、続けてみようとおもう。
そもそも、上手に備忘録を書ける人間は、備忘録なんて書く必要がないのかもしれないのだから。
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