2009/12/23

よるのゆうわく part2



高確率でよるのゆうわくの返り討ちに遭う私を半ば呆れ顔で見守ることが常態化していた彼女も今日は返り討ち。

2009/12/19

山手線、手袋、午前零時

金曜日、ラッシュアワーの恵比寿駅。
乗り込んだ外回りの山手線から弾き出され、ホームに転落。
携帯電話を握りしめたまま、肘及び踝から落下。
同行していた上司に引き摺り起こされ、暫く放心。
幸い、踝からの多少の流血のみで概ね軽症。
そのまま飯田橋での会合を済ませ、帰宅。
恐らくその落下の衝撃で、穴の開いた手袋。
黙々と繕う、午前零時。

2009/12/07

ファミリーサイズ分の幸せ

一つ前のエントリについて、会う人会う人に尋ねられたこと。

「食べ切ったっていっても、どうせ子袋でしょ?」

いいえ、違います。
ファミリーサイズのハッピーターンです。

2009/12/03

果たして幸福は戻ってくるのか?

「ハッピーターン」を衝動的に一袋食べ切ってしまい、ちっともハッピーじゃない。

2009/11/29

Rosas―Zeitung,ローザス『ツァイトゥング』


彩の国さいたま芸術劇場にて、ローザス『ツァイトゥング』を鑑賞。

貫成人さんによる、ピナ・バウシュ追悼トークセッションにて、ローザスの芸術監督である、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルとピナ・バウシュの面差しが似ている、というお話を伺って以来、この公演をより心待ちにしていた。
ピナを悼うような、そんな気持ちで舞台を眺める。

『ローザス・ダンス・ローザス』の印象が強く、反復や同調、そういったものがローザスの代名詞であるように思い込んでいたが、舞台は即興的でロマンティックでさえあった。

余韻を楽しみつつ帰路に就き、どういうわけか、やきとん屋で一杯。

2009/11/22

女優 岡田茉莉子


『女優 岡田茉莉子』読了。
50年代以降の日本の映画史を振り返ることにも等しいその読書体験は、非常に幸せなものだった。

読了に先だって、自伝上梓を記念しての回顧上映で、『情炎』を観、その際幸いにも、ご本人にお会いする。
小津安二郎監督の『秋日和』『秋刀魚の味』で“岡田茉莉子”を知り、吉田喜重監督の『秋津温泉』で魅了されて以来もっとも敬愛する女優を目の前に、わなわなと震えが起こるほどに緊張。
ちなみにその日は、ご主人でもある吉田監督もいらしており、上映後のトークショーでお話も伺うことができた。

自伝により初めて知ったのだが、カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』を、吉田監督が映画化する、という話があったのだという。
イシグロ氏の同意も得られ、岡田茉莉子主演のほか配役やエジンバラでの撮影も決まり、クランク・インまであと5日、というところで突然の制作中止に追い込まれたのだそうだ。
カズオ・イシグロ×吉田喜重×岡田茉莉子、垂涎の組み合わせに、「たら・れば」のもどかしさを感じる。
その後、吉田監督が同じ原爆をテーマにした作品『鏡の女たち』を撮っていることや、お二人の年齢を考えると、これから先の未来に、それが現実のものとなることもおそらくないだろうとおもわれ、もどかしさがよりいっそう極まる、晩秋の候。

2009/11/08

艾未未―AI WEIWEI

会期末、すべり込みでアイ・ウェイウェイ展―何に因って?を鑑賞。

現代中国を代表するクリエイターのひとりであり、北京オリンピックスタジアムのデザイン協力によって、国際的な評価を高めたというアイ。
六本木界隈に出掛け、そのポスターを目にするたび、ひっかかりを感じていた。

しかして、これが驚くほど、ぴんとこず。
揺さぶられる準備はできていただけに、宙ぶらりんの気持ちを持て余す。

でも、帰宅し改めてチラシを眺めると、またひっかかる不思議。

2009/11/05

足つぼ屋、そして、アロマと眠り

先だって、プライベートで足つぼ屋をはじめた友人のお宅にお邪魔した。
お気に入りの香りを選んで、フットバスに浸かり、それからゆったりと施術してもらう。
左足比べ右足に、より痛みや滞りを感じ、反射区にも思い当たるものがあった。
鳩尾のあたりが、ぽかぽかとあたたまった。
それは面白い体験だった。

フットバスでも感じた、香りとリラックスの相関関係。
思い切って、気になったアロマキットを購入。


アロマポットとオイル、ナチュラルスプレーのセット。

説明文によれば、アロマティックハーブと乳香、菩提樹、橙の香りが、深い安らぎに誘い、心のゆらぎに語りかけ、あたたかくおだやかな気分へと導く、とのこと。
入眠効果も期待できるそう。

はてさて、私の眠りは、変質するであろうか。

2009/11/01

南下する寒気

寒気が南下している、という。
非常に勢いのある寒気で、一気に季節を進めるだろう、とのこと。

寒がりの私は、心底怯えている。
俎板の上の鯉にでも、なったような気分。

2009/10/25

洗濯、冷凍、惰眠、空気人形

待っていた校正の出稿が、週を明けるという報があったのが、木曜の夕刻。
明日は“くもりのち晴れ”の予報で、週末には傘マークが。
ならば、と思い切って、代休を申請。

即席の三連休、あれこれを箇条書き。

・念願のタオルケットを洗濯。
・衣替え。
・繕いもの。
・パンプスのヒールをリペア。
・新刊3冊(『少女ファイト⑥』『聖☆おにいさん④』『きのう何食べた?③』)を購入。
・本棚の整理→15冊ほどブックオフ。
・餃子を50個ほど作り、冷凍。
・ハンバーグも、冷凍。
・地元老舗焼肉店でランチ。
・惰眠も少々。
・渋谷シネマライズにて是枝裕和監督作品『空気人形』を鑑賞→ペ・ドゥナがそれはもうかわいらしい→一人で観る映画は秘め事に似ている?
・昼間の赤ワイン、夜の缶ビール。

心残りは、土曜の晩、友人のサクソフォンを聴きに出掛けられなかったこと。

2009/10/22

本日のひとこと

“女に生まれたことにあぐらをかいてはだめよ”

今週は机にしがみつき、食事もコンビニエンスストアのもので済ませていたけれど、やっと一段落。
今日、なんとなく読み返したかった某百貨店漫画を手に、久しぶりに外に出た。
仕事場からほどなくのカフェで、ツナロッソのパスタを、思い切ってデザートのついたフルセットでオーダー。
クリームチーズのプティングを頬張りながら、目に入ってきたこの言葉に、ぎょっ、とする。
そして、はっ、とする。

ぎょっ、とし、はっ、としたことを、何故と考え込んで、また、ぎょっ、とし、はっ、とする。

あぁああ、あぐら、かいてます。
それはもう、怠けてます。
いかん、いかん。

ぎょっ、としたり、はっ、としたりを繰り返して、少し、元気になる。
そんな本日のひとこと。

2009/10/21

連なり、連なること

連綿と繋がっているなにか、それは生命のダイナミズムとでも呼ぼうか、その最後の一片が“私”である。

西武新宿駅の改札まで歩く道すがら、上気しながら友人としていた他愛のない会話が、そこに行き着いた。
友人は「私の片手は、確かになにかと繋がっているけれど、もう片方の手を、繋ぐのは、両手を、繋ぐのは、こわい」、そんなことを言った。

ああそうだ、こわいのだ。
かといって、私でしまいにするのだ、と開き直ることもできない。
そして、こわいものは往々にして、強く人を惹きつける。

改札をくぐり、それきりその話を、私たちはしなかった。

2009/10/18

だって、おんなのこだもの

おもいきり女装して“女子会”に参加してまいりました。

シャンパンで乾杯、テリーヌやカポナータを頬張り、甘いものだって忘れない“らしさ”を本気でロールプレイング。
もう、それは楽しい会でした。
なんたってみな、かわいいのだもの!
八人八色で、直視できないほどの眩さ。
「かわいい」という言葉を、果たして何度口にしたかしら。

あっという間の五時間に、大満足です。

また是非、いたしましょう。

2009/10/12

かつて私の一部だったもの

初めて、抜歯をした。
上顎8番、所謂“親知らず”。

上顎8番は、痛みすら伴わず、いとも簡単に私の一部ではなくなり、ことん、と音をたて、金属の皿の上に載せられた。
付着した血液の赤によって、白が際立つ。
棄却された、かつての私の一部。
アブジェクション。

会計を済まし、持ち帰りたい旨を伝えると、エタノールと一緒にパッキングされた上顎8番を手渡された。

帰宅し、止血綿を外して舌先でそこに触れると、ぽっかりと大穴が空いている。
はてさて、この空隙をどうやって埋めようか。

上顎8番は、私のこの戸惑いなぞ、知りもしないのであろう。
もうずいぶん前からそうあったかのように、エタノールの海に浮かんでいる。

2009/10/10

ヨウジヤマモト―民事再生法を申請

昨日、移動中に友人からのメールで知った、ヨウジヤマモトの経営破綻。
友人も、そのニュースに思わず、携帯電話のダイアルを叩いた、という。
私も、しばし茫然。

確かに、夏ごろから、あぶないという噂は囁かれていたらしい。
ヨーロッパでの拡大戦略が裏目に出た、とのこと。

かたや、ユニクロは過去最高益を更新し、“ファストファッション”と呼ばれるものが乱立。
未曾有の大不況が、消費されるだけのファッションに拍車をかける。

誠実な服は、生き残れないのだろうか。
てつがくを着て、街をあるくことは“重たい”ことなのだろうか。
考え込んでしまう。

2009/10/04

ファッションと性差

ここのところ、目にしたいくつかのものに、同じ位相での切り口が見られ、それがフックのようにカチャリとひっかかったので、少し整理してみようとおもう。
ひとまず、キーワードやキーフレーズとおぼしきものを、羅列する。

***

『女装する女』(湯山玲子 2008/新潮社)
【以下、一章より抜粋】
女性である彼女たちが、彼女たちの通常着であり、ほぼユニセックスである会社スーツやカジュアルウェアを脱ぎ捨て、女らしいフェミニンな服装、メイクそして立ち振る舞いまで身につけることの気分を、総じて“女装”と言っている。
女性がおしゃれの照準針をフェミニン方向にぐぐーっ、と寄せて装うとき、その心は、ほとんど男が「女装」するがごとくの心境なのだ。

***

『VOGUE NIPPON November 2009』
【以下、目次から抜粋】
When His finds Hers
・洗練のセクシーは、アンドロジナスで完成します。
・「&Sexy」が、アンドロジナスの新ルール。
・アンドロジナス・ルックは、“今”を乗り切る新たなロジック。
・メンズスタイルに恋した時代のミューズだち。
【以下、editor's letterより抜粋】
・「アンドロジナス」は「愛」に行きつく?
・人と人の間の境界線をどんどんどんどん近付けて、最後になくしたらどうなるか。
・ドラァグクイーンとして自分と対極にある「性の形」を誇張する表現を試みる。

***

『ココ・アヴァン・シャネル』(アンヌ・フォンテーヌ 2009)
【映画レポートより抜粋】
女学生のようなワンピースや時には男物のシャツやジャケットを改造して身につけるのだ。
それは屋敷に出入りする娼婦まがいの女性たちと一線を画すためであり、コルセットのために自由に動き回れない装飾過剰なドレスへの反発でもあった。

***

仕事の待ち時間で読んだ新書『女装する女』。
なるほど確かに“女装”という気分を、私たちは楽しんでいる。
奇しくも、“女子会”開催の予定もあって、こくこくと頷いてしまう。

読み止しを頂戴した『VOGUE』。
テーマはアンドロジナス。
簡単に言ってしまえば、男女両性の特徴を持つ、の意。
マスキュリンとフェミニンのものさしの上で、軽やかにファッションをトランスフォームする。
“女装”という気分が楽しめるのであれば、“男装”という気分すら、同じように楽しめる。

そして週末、有楽町で鑑賞した『ココ・アヴァン・シャネル』。
スクリーンには、少年のような格好をした、オドレイ・トトゥ。
それは、100年前の社会に於いては、異物ですらあった。

つまり、この100年で、シャネルのような人物の登場によって、急速にファッションに於いての性差は解体されていき、記号化すらなされた。
革新にしろ、保守にしろ、やりつくされた感が漂った先にある今、私たちが手に入れたものは、境界のものさしの上を気分で戯れる、“気楽さ”ではないだろうか。
街で見かけるスカートを穿いた男性には、スクリーンのオドレイ・トトゥから感じた、切実さは最早ない。

ポスト構造主義のその先を語る上で“気楽さ”というワードは外せない、ということを、つい先ごろ、十年来の友人と山手線を待つホームで分かち合ったが、その感をより強固にする今日この頃。

2009/09/29

ドルマゲスLv99

卒業を誓ったしたはずの「ドラゴンクエスト9」。
しかし、“ドルマゲスLv99”なる地図をうっかり弟から受け取ってしまい、その尋常でない設定に、攻略せねば、といてもたってもいられず。

ちなみにドルマゲスですが、1ターンに3回行動。
打撃で約400、マヒャデドスやれんごく火炎で全員が約350~500、HPを削られます。
いてつく波動はもちろん、超おたけび、なども厄介です。

こちらの布陣は、バトルマスター・パラディン・僧侶・賢者、もちろん全員がLv99です。
HPは、一番高いパラディンで900、低い僧侶で700。

ドルマゲスに先制攻撃を許すと、1ターンで全滅すらしかねないわけです。

ドルマゲスの絶対的な強さに、当初、勝てるイメージがまったく浮かばず、弟に相談しながら、試行。
スキルを上げたりだの、川崎ロッカーの地図に潜ったりだの、底上げをはかりつつ、試行。

そしてついに、撃破。
運の要素もたぶんにあったとおもいますが、それでもうれしいものですね。

2009/09/27

ストッキングを履く人生、履かない人生

仕事の待ち時間で開いた、とある新書の中で見かけた「ストッキングを履く人生、履かない人生」という言葉。
ぴん、ときた。

私は普段、ストッキングを履かない。
そもそも、持っていない。
皮膚にぺったりと纏わりつく、あの感じがどうにも好きになれない。
ひとつ前のエントリでも触れた、“境界の際立つ”それが得意ではない、という要因がたぶんにある。

しかし、それだけではないようにもおもう。

少し前、仕事のうえで、久しぶりにスーツ着用が求められる場面があった。
私はそそくさとストッキングを買いに出掛けた。
百貨店のSALEワゴンの中から、えいやあ、と一足見繕う。
それを纏った足首が、ロングスカートからいやに白くのぞくたび、所在ない気持ちになる。
身体の一部は、白く滑らかに際立ち、かつ、きつく締めつけられているのに、気持ちはどんどんと所在をなくしてゆく。
ストッキングの記号性が、どこまでも私を疲弊させる。

ストッキングひとつで、こんなにも草臥れ果てて、なんと不自由なことか。
いつか、ストッキングを身につけても、びくともしない日がやってくるだろうか。

いや、願わくば、ストッキングの孕んでいる記号性に、無自覚にはなりたくない。
5年後も10年後も、うまく想像できないけれどその先も、たとい毎日ストッキングを身につける人生が待っていたとしても、ストッキングに慣れることがありませんよう。

2009/09/19

来るべき寒い季節の到来

容赦のない日差しを、少しずつ秋の風が回収し、もうじき秋分。
暦の上で、冬が立つまで、あと二月足らず。

私は極度の寒がりで、次の季節の到来を、心底おそれている。

“境界の際立つ”それが、得意ではない、のだとおもう。

細身のシャツやらパンツやらに腕だの脚だのをすべり込ませたり、ブラジャーをつけたり(最近一日ばかりわすれましたが)、ベルトをつけたり、そういった作業を怠らずにやってきたにも拘らず、境界の際立つ、その感じに対する免疫のようなものはちっともできない。
熱いシャワーを浴び、髪の毛をきつく縛って、好きな男のひとと手を繋いでみても同じ。
それでも、私は、細身のシャツやらパンツやらに腕だの脚だのをすべり込ませたり、ブラジャーをつけたり(しつこいですが、最近一日ばかりわすれました)、ベルトをつけたり、そういった作業は怠らずにやっているし、熱いシャワーも浴びれば、髪の毛もきつく縛れば、ときどきは好きな男のひとと手を繋いだりもする。
手を繋ぐのはともかく、今さらやめるわけにもいかない、というのが主な理由ではあるが、得意ではない、ということと、好き嫌い、というのは、違ったものであるし、また、ブラジャーをつけると得られる効果、というのが、乳房の境界を際立たせること以外にもいくつかある、というところも大きい、のだとおもう。

とはいえ、来るべき寒い季節の到来は、おそろしいものであることに変わりはなく、このまますべてを放り出して、南半球に逃げてしまおうか、とかんがえたりもする今日この頃。

さて、どうしてこんなことを懸命に書いているか。
みなさんもご存知の、木曜日のわすれものが深く影響している、ということは否めますまい。

2009/09/18

わすれもの

月曜日、お財布を家にわすれました。
気がついたのは、JR中野駅の改札。
定期券もなにもかも、お財布の中に格納されていた為、入場することすらできず、そそくさ、と、来た道を引き返しました。

火曜日、携帯電話を家にわすれました。
気がついたのは、JR中野駅の構内。
引き返すか否か迷いましたが、えいやあ、と思い切って、そのまま電車に乗りました。

水曜日、今日はわすれものをしてたまるものか、と、鞄の中のお財布と携帯電話を入念に確認し、家を出ました。
しかし、持っていったはずの携帯電話を、今度は会社にわすれました。
気がついたのは、京王吉祥寺駅の改札。
デザイン事務所での打ち合わせを控えていた為、携帯電話を持たずに出掛けることが憚られ、駆け足で来た道を引き返しました。

木曜日、大声ではいえないのですが、ブラジャーをわすれました。
気がついたのは、西武新宿線の列車内。
会社の健康診断があり、レントゲン撮影が予定されていたことから、“ブラジャーをしない”までは計算のうちだったのですが、まさか持ってゆくのをわすれるとは、おもいもよらず。
まるで、プールの授業で水着はわすれず下着をわすれる、小学生のようです。
引き返すことも能わず、大変心細いおもいをした一日になりました。

“人並みにはわすれものをするけれど、多い性質ではないだろう”と、自身について分析をしていましたが、認識を改める必要がありそうです。

そして、明日、金曜日。
私は一体、何をわすれるのでしょうか。

2009/09/13

書棚の整理

増える一方の書籍類。

狭小住宅に住まう私は、書籍は書棚ひとつ分、と決めており、収まりきらなかったものは、基本的には実家に送っています。

最近、汗にまみれながら、大掃除をしました。
書棚というのは、持ち主のシコウ(思考・嗜好・志向)が滲んでしまうものであるとおもいます。
ビジネス書、実用書の類がない書棚を眺め、改めて自身が怠け者であることを、思い知るのでした。

2009/09/09

備忘録孝

「ある一定の緊張感を持った備忘録」というものを志向し、記録をつけることをはじめてみたものの、ほどなく気づいたのが、
“忘れたくないことほど、書くことができない”
ということだ。

こう書き出して、ふと『羊をめぐる冒険』(村上春樹 1982)の一節をおもい出したので、引用してみる。

***
 僕は昔から手紙を書くのが上手くない。順序が逆になったり、正反対の言葉を間違えて使ってしまったりする。そして手紙を書くことでかえって自分を混乱させてしまったりする。それから僕にはユーモアの感覚が不足しているから、文章を書きながら、自分で自分にうんざりすることになる。
 もっとも、手紙が上手く書ける人間なら手紙を書く必要もないはずだ。何故なら自分の文脈の中で十分生きていけるわけだからね。しかしこれはもちろん僕の個人的な意見にすぎない。文脈の中で生きていくことなんて不可能なのかもしれない。
***

引用ついでに、もう一つ。
『妄想の日食』(ジェイムズ・ラスタン)の一節。

***
 ハガキ一枚ぐらいのことでバカ正直になるもんじゃない。
 正直さはもっと大事なことに取ってあるんだ。
***

私は数年前、こうして記録をつける代わりに、うそ日記をつけ、公開していたことがあった。
(例えば、こおろぎに求婚されたり、作りもの鉤爪をつけ、タスマニアデビルになりきっているたぬきとカフェラッテを啜ったり、そういった類のものだった)

当時、私は国外で生活をしており、それならばブログをつけるようにと、ある友人に促されたのが、きっかけになったようにおもう。
実際、毎日、大学ノート一枚分程度の日記は書きつけていた。
しかし、それはあくまでも私個人のものであり、そっくりそのまま公開する気持ちにはどうしてもなれなかった。
だが、よくよく考え、その結果、サイト上になにがしかの文章が更新されることが、私の安否等々を気にかけてくれる人たちへの信号となることは大変に有効である、とおもうに至った。
ならば、中身はなんだってよい。

うそ日記をつけることは、体力こそいたが愉快なことでもあった。
自由でもあった。
そして、うその中にどうしても含まれてしまうほんとうの部分が、おそるべきことに備忘録としてさえ、機能した。
こうして、ある程度襟を正しながらつける記録よりも、その瞬間に流れた感情の痕跡が、生々しく残った。
今、読み返してもなお、その痕跡をたどることができるほどに。
もちろん、それは、大学ノートに書きつけていた日記同様、どこまでも私個人のものであるのだが。

抑制された記録より、うそ日記が、より備忘録たる、という事実に気づき、なんとまあ皮肉なものだとおもいつつ、もう少し、この実験(「ある一定の緊張感を持った備忘録」というものを志向すること)を、続けてみようとおもう。
そもそも、上手に備忘録を書ける人間は、備忘録なんて書く必要がないのかもしれないのだから。

2009/08/31

8月のおしまいは

8月のおしまいは雨ふりサーカス。
そういえば、今年の台風はちょっぴり意地悪だ。
地震だの政権交代だの、なにやかやにくっついて北上をする。

ちょっぴり意地悪な台風が、房総半島を掠めて北上し、私は8月のおしまいを、少しばかり持て余す。

2009/08/27

よるのゆうわく

中野のちいさなカフェ、カルマ。

メニューのケーキセットのところには「よるのゆうわくたまにはいいんじゃない」というようなことが綴られていますが、私の場合、これが“たまに”ではなく、100%返り討ちに遭います。


写真はお味噌のカップケーキとチャイのセット。
しあわせの組み合わせです。

2009/08/22

校了作業とドラゴンクエスト9

私は月刊ベースで、本をつくる仕事をしています。
よって、月に一度、校了という作業がやってきます。
(納期のようなもの、と考えていただければ、差し支えないかとおもいます)
校了前は、深夜帰宅がつづきます。
ロングスリーパーの私は、帰宅後すぐさま風呂を済ませ、せっせと布団に入り、翌日に備えるのが常です。

しかし、今月の校了前は、簡単にはいきませんでした。
タイトルにもあるとおり、遅ればせながら「ドラゴンクエスト9」を手に入れてしまったから。。。


朝も昼も深夜も、5分あれば、DSの電源を入れてしまう、私。
睡眠が不足し、脳がきゅうきゅうと音をたてています。
それでも、電源を入れてしまう、私。

2009/08/16

ピート


実家の愛犬、ピート君です。
ピートという名前は、モンドリアン画伯から頂戴いたしました。
ピート君の小屋はもちろん、画伯にちなんだモンドリアン柄です。
悪巫山戯の気持ち半分で、姉弟、協力して小屋を塗りました。
ちなみに先だっての静岡の地震では、彼も脅えたそうです。
大好きな朝ごはんになかなか手をつけなかった、とのこと。
私は根っからの猫派でしたが、犬もいいよなあ、とおもう、今日この頃。


2009/08/09

WORLD HAPPINESS 2009

行って参りました、夢の島。
もちろんお目当ては、再結成されたYellow Magic Orchestra。
そして、pupaに高野寛、なにやかやで露出が少なく、なにかと話題の相対性理論、このあたりに期待していました。

しかし、地下鉄で行ける野外フェスはいいですね。
さらには、20時には散会、というのもいい。

お天気もなんとか持ち、大トリのYMOまで、ビール片手に、ゆるゆると楽しみました。

それにしても、やはりおじさまたちは素敵でした。
Yellow Magic Orchestra名義での、国内の野外フェスへの参加は、今回が初めてだそうです。
一曲目が「Hello, Goodbye」で、すっかり気持ちを攫われました。
AC「Fire Cracker」は晴臣おじさまが大変セクシーでした。
本当にあっという間の1時間。
気がつけば、日はすっかり暮れていて、ステージの花火が眩しく映るのでした。

2009/08/06

7月のおしまいに

7月のおしまいに、少し早めの夏休み。
カンボジア・シェムリアップに行って参りました。

サンフランシスコでの生活を終えてのち、すっかりドメスティックな日常に浸っていた私にとって、4年5か月ぶりの越境。

憬れたアンコールの遺跡群。
人の造りしもの。
千年前の最先端。
そしてそれを呑み込む木の根、熱帯の森。

そこでは、かつての意味は削がれ、また新たな意味が生まれていました。

トゥクトゥクで受ける風、独特の匂い。
そこにある人々の生活のダイナミズム。
東京とはまったく違った速度で流れる時間は、刺激的で、かつ、愉快なものでした。

体験が思い出に変換されるまでの数日間、すっかり惚けたようになり、社会復帰はなかなかに困難をきわめました。

余談ですが、国の境目を越えると、自らと世界の境目が際立つのは、実に面白いことですね。
自身の存在の不確かさが、逆に境界を際立てるのでしょうか。

2009/08/04

ピナ・バウシュ

敬愛してやまないドイツの振付家、ピナ・バウシュが、6月30日、ヴッパタールの病院で亡くなりました。
癌と診断されたわずか5日後の死だった、とのこと。
彼女とヴッパタール舞踊団の2010年の来日が、決まった矢先の出来事でした。
私は、何気なく開いた、日本文化財団のホームページ上で知りました。

忌野清志郎の死よりも、マイケル・ジャクソンの死よりも、アベフトシの死よりも、私にとっては、彼女の死が衝撃でした。
ひどく混乱した私は、洗面所で少しなきました。
身体いっぱいに、かなしみが澱となって積もってゆきます。

ああ、こんなにも、私は彼女に励まされていたんだ。
「怖がらずに踊ってごらん Tanzen gegen die Angst」
彼女の言葉に、揺さぶられ、啓蒙され、赦されていたんだ。

もう、カーテンコールで彼女の姿をみることはできません。

彼女が死に、私は身体の一部が足りないような〈不安〉をおぼえます。
でも、踊らなきゃ。
みっともない私のこの身体を、私は信じます。

2009/08/02

気楽さで屈託を

「いとも簡単に忘れてしまう。」
「五感を持ってしても、感じる焦燥も恍惚も、本当に簡単に忘れてしまう。」

これが、今回、記録を始めようとおもうに至った、動機のひとつです。
所謂、備忘録。

でも、備忘録なら、紙の切れっ端にでも書きつけておけば十分じゃないか、そのように考える性分でもある私。
その備忘録を公開することに、屈託がないわけではありません。
しかし、その屈託も、年をとるにつれ、だいぶ扱いやすいものになってきたように感じています。
自意識の軛にとらわれがちな私が、近年獲得した一番大きいものは、ある種の気楽さだともおもいます。
気楽さで屈託をコーティングした球を、高く高く抛ってみよう、今、そんな気分です。

そして、もうひとつのキーワードは緊張感。
紙の切れっ端に書きつける場合、よっぽど精神を研ぎ澄ませでもしない限り、そこに緊張感はありません。
慌ただしい日常の中で、腰を据えて紙の切れっ端と向き合うのも、なまなかではない。
しかし、慌ただしいとはいえ、平坦になりがちな日常に緊張感も欲しい。
それが、ひとつめのエントリで書いた、「読まれる私としての緊張感」に繋がります。
それは、少しばかり、ハイヒールを履き、くちびるを真っ赤なルージュで縁どって、街を歩くことに似ているようにもおもいます。

読む私、読まれる私

読まれる私、という緊張感を持って、記録をつけることを始めます。